「心得たと思うは、心得ぬなり。」
2022.07.05
「心得たと思うは、心得ぬなり。」 蓮如上人御一代記聞書
学ぶことの楽しさに、知識を得て問題を理解することがあると思います。
ところがお念仏の教えにおいては、「理解したと思うのは、理解していないことである。」と蓮如上人は仰っておられます。
どういうことなのでしょう。
かつて「仏法を聞く時に、自己関心というお城から聞いている」と言った人がいました。仏教に限らず、人は自分に関心のあることを学んでいきますし、自分なりに咀嚼して巧く聞いていく力もあるのでしょう。実はそこに根本的な問題があります。
先の蓮如上人のご文章は次のように続きます。
「心得ぬと思うは、こころえたるなり。弥陀(みだ)のおたすけあるべきことのとうとさよと思うが、心得たるなり。」
「何だ、理解の仕方をこっちに強制するのか、お念仏は」という声も聞こえてきそうですが、そうではなく、理解を超えた願が大事なのです。
弥陀のおたすけを、超世の悲願ともいいます。世に超えた悲願。
私たちはその願にたすけられていくほかない。
論理や研究をして仏教を「心得る」と、願を見失い教養として学ぶことに終始してしまうのです。更には仏法を聞いたこちら側を中心にしようとするかもしれないのです。
弥陀のおたすけあるべきことの尊さよ、とは自分の理解を超えているものに出遇えた無上の慶びが顕されているのです。
尊いものに頭がさがった深い感動がお念仏なのでしょう。